THE NEW JAPAN

REVIVING SABANI SAILBOATS

帆船サバニの復活

Photography: Ichi Nakamura/Words: Sam Holden

沖縄の伝統を継ぐ帆船を、八重山の地で再びよみがえらせた立役者の物語。

15年前、吉田友厚さんは初めてサバニ—諸説ある名称の由来の一つは現地の“鮫の船”という言葉—を造った。その船は今も彼の屋外工房の外に置かれている。この一隻の帆船こそが、石垣島でサバニの伝統を守り続けたのかもしれない。 サバニは帆と櫂を用いて進む木造船で、沖縄の人々はかつて漁業や島間の移動手段として日常的に使用していた。しかしアメリカ統治期にエンジンやプラスチック船体が普及すると、次第に姿を消していった。沖縄全域では10人未満の職人が、ハーリー (サバニを用いた伝統的なレース) や愛好家、観光ツアーのために今もこの船を作り続けており、吉田さんはその1人だ。 吉田さんが暮らし、働いているのは、細長く人口の少ない石垣島北部の平久保半島。森に囲まれた小さな集落や、静かな青い海に抱かれた隠れたビーチが点在する地域だ。早朝に新しいサバニの作業を数時間こなしたのち、たいていは観光客のグループを連れてツアーに出る。「最近の人たちは風で移動した経験がないことが多いけれど、その感覚は私たちの中に組み込まれていると思います」と彼は話す。「空港からそのままここに来る方もいます。サバニでの航海は、島の時間に体内時計を合わせるのに最適な方法なんです」。

今から約20年前、吉田さんは20代後半の頃に東京から石垣島にやって来た。建設や農業などの仕事をしながら、自分の船を持つことを夢見ていた。ある日、石垣島で最後のサバニ職人が引退を考えているという噂を耳にした。その船大工については記事を読んだことがあり、工房を訪ねなければならないと感じた。 新城康弘さんは当時80代半ばで耳が遠く、吉田さんが目の前に立つまで作業をやめなかった。補聴器を装着すると、新城さんは本題に入った。サバニを造りに来たのか?「そこまで考えていなかったが、はいと答えました」と吉田さんは出会いを回想する。新城さんは木材の山を指し、取り掛かる準備ができたら戻ってくるようにと言った。 師匠は寡黙な人だった。吉田さんは観察と、慎重に言葉を選んだ問いかけを通じて学んだ。最初の1隻を造るのには約2ヶ月を要した。完成する頃には、造船こそが自分の天職だと感じた。新城さんの助言はこうだ。 3隻造って失敗から学べ。 4隻目からは胸を張って船大工を名乗れ。 吉田さんは現在、年に数隻を納品している。着手から完成まで1隻あたり数ヶ月かかる。サバニは、油分の多い宮崎産の飫肥杉を用い、船底を上にした状態で建造される。船体は船首から船尾へと徐々に曲げられ、木製の蝶形の埋木と竹釘を打ち込むまではクランプの役割を果たす鎹仮留めする。船底は太い丸太から刳り出し、アウトリガーなしでも安定を保てる底が重い船になる。水漏れのないよう接合が完了したら、船体を鉋で削り、研磨して、海上で50年持つ滑らかな木製の表面に仕上げる。

吉田さんの工房は、新城氏から受け継いだものや、日本各地の工具職人から買い集めた、特殊な鑿と反り鉋、手鋸が所狭しと並んでいる。大工の経歴を持つ吉田さんは、サバニの世界はより即興性が求められると言う。「船大工は、型通りでは通用しません」と、彼は笑いながら話す。次作となる30隻目は自分のために造る。どのサバニも今なお実験作だ。ただ、経験を重ねて、師が十分に説明しなかった技法の背景を理解するようなりつつある。 吉田さんは、サバニにとって終焉となり得た状況を、新たな始まりへと変えた。事業を立ち上げる際、彼は年間数隻の船を同業者に販売し、観光ツアー用に使い方を教えるという事業計画を立てた。融資を検討する銀行の担当者はこう問いかけた。石垣島でサバニを造っているのはあなただけなのに、なぜサバニツアー市場を独占しないのですかと。しかし吉田さんは、伝統工芸が生きていくには生態系の一部として存在する必要があり、サバニを次世代に継承するにはより多くの人々の賛同が必要だと理解していた。彼は今、若い船大工に自身の技術を伝授している。「100年後には、島中に船大工がいることを願っています。人々がサバニの重要性を理解し、その存続を心配する者がいなくなることを」。

Issue No.1

The Yaeyama Islands

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